節句とは?五節句とは?意味や由来を探る!不思議な奇数だけの謎!?
あなたに聞きます
日本の節句って
いつなのか
いくつあるか
知ってますか?
初節句、桃の節句、端午の節句・・節句とは何のこと?
節句の意味は?由来は?いつから?
たまに聞く五節句とは、
何を指しているの?
どんな節句があるの~?
日にちはいつなの?
調べてみると興味深い数字の中身など
興味深い事実が沢山発見できました。
節句の意味は?・由来は?
伝統的な年中行事を行う季節の節目を指します。
「節目の日」とは物事の区切りを指し、大事なところをいいます。
節句は季節の節目に、願い事として「無病息災・子孫繫栄・豊作・無災害」を祈願して供え物をしたり、邪気を祓う行事いみしています。または、節供(せっく)ともいいます。
由来は、古代中国の陰陽五行説として日本に定着した暦らしいです。
いつの日なの?・・制定された日にちも興味深い
1月7日 人日 (じんじつ) の節句 【七草の節句】
3月3日 上巳 (じょうし) の節句 【桃の節句・草餅の節句】
5月5日 端午 (たんご) の節句 【菖蒲の節句】
7月7日 七夕 (しちせき) の節句 【笹の節句】
9月9日 重陽 (ちょうよう) の節句 【菊の節句・栗の節句】
五つの節句がありますね。日にちをよく見てください。全て奇数ですね。1月を除くとゾロ目ですね。では何故1月だけがゾロ目ではないのでしょうか。
人日(じんじつ)という名称は、中国では1月1日から7日までを、以下のようにあてはめて占う風習があったことが由来しています。
1日:鶏(にわとり)
2日:狗(いぬ)
3日:羊
4日:猪(いのしし)
5日:牛
6日:馬
7日:人
その日の占いの対象となる動物は大切に扱われたそうです。
7日は「人」ですよね。
そのため「人」を大切に扱うということで
『人日の節句』が制定されたそうです。
一年間で「五つの節句」があり、惜しくも四つの節句がゾロ目でしたね。それも全ての節句の月日が奇数というのも興味深いですね。
奇数である数字の意味は?
奇数は「陽の数」として縁起が良い数字とされています。
奇数の月と奇数の日は、奇数が重なっているので偶数(陰の数)になりますよね。それを避ける為に季節の節目には旬の食べ物を食べて生命力を強めようとしてきました。その力で邪気を祓う目的で「避邪(ひじゃ=魔よけ)」が行われるようになったそうです。
現代まで根付いてきた節句の由来は?
この五つの節句が日本に伝わってきた平安時代には、宮中行事として行われていたそうです。
江戸時代になると幕府は宮中行事である五つの節句を一年の内で重要な節目として「式日」と定め、公的行事として休日にしたそうです。
明治時代になると「式日」は廃止されることになりました。でも節句の風習は広く世間に広がり根付いてました。現代では季節=節目を楽しむ行事=五節句として定着しました。
五節句について
一月七日 人日の節句(じんじつのせっく) 【七草の節句】
『人日』とは、五節句の一番目の節句です。陰暦の一月七日のことをいいます。元旦から始まったお正月の最後となる日は、七草粥を食べて飽食で弱った胃腸を労り、一年の無病息災や豊作を願います。
旬の生き生きした植物である七草を粥にして食べれば、自然界から新たな生命力をもらえ、無病息災で長生きができるとされていました。かつては、前日に野山で菜を摘み、年棚(歳神を祭った棚)の前で七草囃子(ななくさばやし)を唄いながらすりこ木でたたいたそうです。こうすることで、七草の力をさらに引き出すことができると考えられてました。
日本には古くから年の初めに雪の間から芽を出した若菜を摘む、「若菜摘み」という風習がありました。
また「若菜摘み」とは関係なく、平安時代には、中国の年中行事である「人日」(人を殺さない日)に作られる「七種菜羹〔ななしゅさいのかん〕(7種類の菜が入った吸い物)」の影響を受けて、7種類の穀物で使った塩味の利いた「七種粥」が食べられようになったそうです。 その後、「七種粥」は「若菜摘み」と結びつき、7種類の若菜を入れた「七草粥」になったと考えられます。江戸時代には幕府が公式行事として「人日」を祝日にしたことで、「七草粥」を食べる風習が一般の人々にも定着していったようです。
引用:日本文化いろは辞典
三月三日 上巳の節句(じょうしのせっく) 【桃の節句・草餅の節句】
『上巳』とは、桃の花が咲く時期にあたり「桃の節句」と言われています。
この節句は世間全般に知られています。
現代では、女の子の誕生や成長を祝う「ひな祭り」として知られています。
元々3月3日は、年齢・性別関係なく、草や藁〔わら〕で作った人形〔ひとがた〕の体を撫で穢れ〔けがれ〕を移し、健康を祈って災厄を祓うことを目的とした農村儀礼が行われていました。また、平安貴族の10歳くらいまでの子女は、人形〔ひとがた〕を貴族の日常生活を真似たごっこ遊びをする目的に用いていたようです(この遊びが後にひな祭りになりました)。
現在も地方によっては、穢れを紙の人形に移しそれを川に流す「流し雛」の風習が受け継がれています。
平安時代頃から、3月の初めに海や山へ出て一日を過ごし身の穢れを洗い流す農村儀礼がありました。田植えの始まりにあたるこの時、田の神を迎える為に、紙で作った人形で体を撫でて穢れを落とした後、海や川に流していたようです。また、桃が邪気を祓い長寿を保つと言う中国思想の影響を受けて、桃の花の入った桃酒を飲むようになったようです。
江戸時代に入ると、紙の雛人形を流す行事は川が汚れるという理由から流すことが難しくなってきました。その頃から、現在の雛壇を飾る「雛祭り」へと行事の内容が移行したのではないかと言われています。
奈良県五條市南阿田町には、現在も「流し雛」の行事が残っています。まず体を千代紙で折り、大豆を頭に乗せた雛を、家族の女の数だけ作ります。それを、男女一対にし雛壇の下に飾ります。4月3日(旧暦3月3日)の雛納めの日にそれらを竹の皮の舟に乗せ吉野川に流すようです。
また、鳥取県鳥取市用瀬町〔やずぐんもちがせちょう〕でも、同じような行事が受け継がれています。
引用:日本文化いろは辞典
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五月五日 端午の節句(たんごのせっく) 【菖蒲の節句】
『端午』とは、子どもの日、男の子の節句として浸透しています。「菖蒲の節句」とも言われています。菖蒲湯に入り無病息災を願い、健康で丈夫な身体を願います。また、菖蒲=尚武という言葉にかけて、勇ましい飾り=鎧・兜などで男の子の成長を祝う「尚武の節句」とも言われています。
江戸以降は男子の節句とされ、身を守る「鎧」や「兜」を飾り、「こいのぼり(※)」を立てて男子の成長や立身出世を願ってお祝いをします。また、初節句(男の子が生まれて初めての節句)にはちまきを、2年目からは新しい芽がでるまで古い葉を落とさない事から「家督が途絶えない」縁起物として「柏餅」を食べます。
地方によっては、子供の行事としてだけでなく、田の神を迎えるための禊の名残として菖蒲湯に入る習慣も残っているようです。※登竜という激流(登竜門)を鯉が登ったという中国の伝説を受け、鯉には出世と健やかな成長を願う親の気持ちが託されています。
端午の節句は奈良時代から続く古い行事です。もとは月の端〔はじめ〕の午〔うま〕の日という意味で、5月に限ったものではありませんでした。しかし、午〔ご〕と五〔ご〕の音が同じなので、毎月5日を指すようになり、やがて5月5日のことになったとも伝えられます。
当時は邪気を避け魔物を祓う薬草とされていた「菖蒲」を、よもぎと共に軒にさし、あるいは湯に入れて「菖蒲湯」として浴しました。時代が武家社会に移るにつれ、これまでの風習が廃れ、代わりに「菖蒲」と「尚武」をかけた尚武(武士を尊ぶ)の節句へと移っていきます。この流れを受け、江戸時代には徳川幕府の重要な式日が5月5日と定められ、大名や旗本が式服で江戸城に参り、将軍にお祝いを奉じるようになりました。また、将軍に男の子が生まれると、玄関前に馬印〔うましるし〕や幟〔のぼり〕を立てて祝いました。こうして時代と共に男の子の誕生と成長を祝うお祭りへとなっていきました。
男の節句とされていたので昔は鎧や兜はお父さんやおじいちゃんが飾るのが習わしでしたが、現在では特にこだわる必要はないそうです。4月中旬までには飾りの準備を終わらせ、当日か前日の晩には両家両親や知人を招き、縁起物のご馳走でもてなします。 また、今でも「強い香気による厄払い」という意味が込められた「菖蒲湯」には性別年齢関係なく入浴しています。
引用:日本文化いろは辞典
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七月七日 七夕の節句(しちせきのせっく) 【笹の節句】
『七夕』とは、大抵の人が知っている七夕祭りの行事として、毎年笹の葉に願い事を短冊に書いて飾ります。
幼稚園児や小学生の頃の思い出として残っているでしょうね。夜空を眺めて、織姫と彦星の物語をよく聞きましたね。
7月7日は、織姫と彦星が逢瀬を重ねるのを星を見守る日として知られています。この日、芸技が上達するように、出会いがありますようにという願いを詩歌にした短冊を竿竹にくくりつけると祈りが届くとされています。
また、この時期はお盆(旧7月15日)を迎えるための準備(七夕盆)としての意味をもち、畑作の収穫祭を祝う祭りが人々の間で行われていました。この時、健康を祈り素麺の元となったお菓子「索餅〔さくべい〕」が食べられていました。索餅は熱病を流行らせた霊鬼神が子供時代好きな料理で祟りを沈めるとされていました。やがて、索餅は舌触りのよい素麺へと変化し、七夕に素麺を食べるようになったそうです。
日本では古来より、「棚機つ女」といわれる女性が、機〔はた〕で織った布を神におさめ、病気や災厄が起こらないように願ったという話がありました。7月7日〔しちせき〕を「たなばた」と呼ぶのは、この「棚機つ女」がもとになっています。
そして、中国の文化に強く影響を受けた平安貴族たちは、竹竿に糸をかけて願いを星に祈るとかなえられるという乞巧奠の習わしに従い梶の葉に歌を書き付けて手向ける「星祭り」を行うようになりました。
その後、乞巧奠が大衆の間にも広まり、やがて棚機つ女と結びつき現在のように7月7日の七夕となっていったようです。
江戸時代に入ると、短冊に詩歌を書き、笹竹に軒先に立てる風習が寺子屋の普及とともに浸透していきました。明治になり、各地の商店街などで大規模な七夕祭りが開かれるようになり、さらに一般の人々の風習として広まっていったようです。7月のはじめ頃に竹に願い事を書いた短冊を作ります。短冊を軒下に飾るのは6日の夜で、7日は七夕飾りを海や川へ流して神様に持ち去ってもらいます。
現在は環境汚染問題から川に流すことは困難である為、神社で燃やしてもらうのが一般的なようです。また、日本各地に七夕にちなんだ伝説があり、特に大阪と福岡が有名です。大阪府枚方市・交野市の地域は、昔は交野ケ原と呼ばれ、「天の川」という七夕にゆかりのある名前の川が多いそうです。福岡県小郡市の大崎には、七夕伝来の地と言われている「七夕神社」があります。
七夕の伝説が本当だとしたら・・?ロマンを感じますね。
引用:日本文化いろは辞典
九月九日 重陽の節句(ちょうようのせっく) 【菊の節句・栗の節句】
『重陽』とは、「菊の節句」または「栗の節句」「お九日」とも呼ばれています。
五節句は奇数と奇数が重なる節句ですが、一番大きな奇数の数字という意味で重陽と言われています。余り馴染みがないですが、宮中や寺院では、菊を鑑賞する行事が行われています。
古代中国では菊は「翁草〔おきなくさ〕」「千代見草〔ちよみくさ〕」「齢草〔よわいくさ〕」と言われ、邪気を祓い長生きする効能があると信じられていました。
その中国の影響を受けて日本では、8日の夜に菊に綿をかぶせ、9日に露で湿ったその綿で体を拭いて長寿を祈っていました。また、菊に関する歌合わせや菊を鑑賞する宴が催されていたそうです。現在は寺社などで行事を行う程度で一般にこれといった行事はあまり行われていないようです。平安時代以前は、農山村や庶民の間で秋の田畑の収穫が行われる時期に「栗の節句」とも呼ばれて栗ご飯などで節句を祝いました。(その後も農民の間では収穫祭の意味合いが強く受け継がれていきました)
平安時代に入って中国思想の影響を受けると、菊の花を浸した「菊酒」を飲み交わし、茱萸(しゅゆ=ぐみの実のこと)を掛けて悪気を祓う菊花の宴が催されるようになりました。また、菊に関する歌合せや、「菊合わせ」という現代で言う菊のコンクールが盛んに行われるようになりました。
現在でも、9日に行われるとは限りませんが、菊のコンクールや鑑賞を行う風俗は残っています。京都の上賀茂神社では、無病息災を祈る重陽の節会が現在でも行われています。
9日には、境内細殿前の土俵の左右から、弓矢を手にした二人の刀弥〔とね〕が横とびしながら2つの立砂の前へと現れ、「カーカーカー」「コーコーコー」と烏の鳴きまねをした後、近所の子供が相撲を行う烏相撲〔からすすもう〕や、「菊の被綿〔きせわた〕」の神事がとりおこなわれます。
引用:日本文化いろは辞典
まとめ
節句とは何のことかなぁ~。
という疑問から調べていくと興味深い内容が沢山出てきましたね。年中行事なのに、よく知られている「雛祭り」「端午の節句」「七夕」など世間では定着している節句もあれば、初めて知った節句もあり新鮮でした。
七草粥などの行事に食べる食べ物で知られているもの、七夕まつり様に祭りで知られているものもあり為になる知識が身につきました。
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